平成31年度熊本大学入学式 式辞

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入学生の皆さん、おめでとうございます。

本日、ここに、ご来賓各位のご臨席を賜り、理事、副学長、部局長、教職員とともに熊本大学第71回入学式を挙行し、学部生や大学院生など総勢2,586名の溌剌とした皆さんをお迎えできたことは、熊本大学にとって大きな慶びであります。

私ども大学構成員一同、皆さんを心から歓迎するとともに、大学に新しい風を吹き込んでくれることを大いに期待します。

また、皆さんが今日という晴れやかな日を迎えることができたことは、自らの努力によることは言うまでもありませんが、皆さんを今日に至るまで、ずっと支え励ましてくれたご家族や、恩師、友人、先輩の方々のお蔭でもあります。これら全ての方々に対しても、皆さんと一緒に感謝申し上げたいと思います。

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これから皆さんの学び舎となる熊本大学は、長い歴史と素晴らしい伝統を持った大学です。文学部、法学部と理学部は、旧制第五高等学校、教育学部は師範学校、工学部、薬学部はそれぞれ専門学校、医学部は医科大学を母体として、昭和24年(1949年)に新しい制度の下に総合大学として発足し、現在まで12万人以上の卒業生を送り出しています。旧制第五高等学校の校舎は、黒髪キャンパスにあり、国の重要文化財に指定されています。残念ながら三年前の熊本地震で大きな被害を受け、その修復は2021年度までかかる予定です。その第五高等学校の創成期には、講道館柔道の創始者であり、NHK大河ドラマ “いだてん”にも登場する嘉納治五郎が校長を務め、文学者でもあるラフカデイオ?ハーンや夏目漱石なども英語の教師として教鞭をとりました。また、高名な物理学者で随筆家でもある寺田寅彦も漱石を師として、勉学を重ねました。

熊本大学は、その伝統を守り、多くの文化に理解を示し、国内外の様々な問題に関心を持ち、それらの問題を解決する能力と自分の考えを説明する能力を備えた人材を養成することを目指しています。そのための教育戦略として、「旧制五高以来の剛毅木訥の気風を受け継ぎ、“Global Thinking and Local Action”できる人材育成」を掲げています。また、熊大スピリットを伝えるコミュニケーションワード「創造する森 挑戦する炎」が意図するところはここにあります。

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さて、皆さんが受験された今年の本学の前期日程入学試験の英語の第一問は、長文で困惑したという話も耳にしましたが、これはユヴァル?ノア?ハラリのベストセラー「サピエンス」からの問題でした。その中で、絶滅したと言われるネアンデルタール人と我々の祖先であるホモ?サピエンスとの違いは、「言葉を喋れる」ことではなく、物語を語れる、伝説、神話、神、宗教を作り出す「認識能力」を獲得したことだと著者のハラリは述べています。その後、世界中に拡散したホモ?サピエンスは、数百万年間の狩猟採集時代、約一万年間の農耕牧畜時代、数百年間の工業化社会、そして現在数十年の情報化社会へと発展していきます。正に指数関数的に科学は進歩し、もうすぐ人工知能AIの時代になろうとしています。実は、ハラリは「サピエンス」の続編として「ホモ?デウス」という本を書き、そこで高度に発達した科学の進歩の前に、私たちはどうすべきかを問うています。意識を持たない(つまり空想的認識能力のない)高度の知能を備えたAIが人間よりも人間を知ることができるか、人間の未来を決めるようになるか、考えさせられる様々な問題を提起しています。

人間には知識より重要な意識、意欲があり、さらに好奇心も備わっています。ヒトの脳とコンピューターやAIとの違いは、忘れることと間違いを犯すことです。これは、コンピューター等には無い能力であり、そのため人間は「何故か」という疑問を持ち、さらに好奇心が次の行動へと駆り立て、これこそ正に「創造する森 挑戦する炎」であり、人間を第一次産業から第四次産業へと指数関数的に発展させてきた原動力なのです。

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先程述べた第五高等学校の先達の一人に寺田寅彦がいます。彼が昭和8年に書いた随筆に「科学者とあたま」というものがあります。<「科学者になるには『あたま』が良くなくてはいけない。」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味では本当だと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはり本当である。>で始まるこの随筆を、ちょっと長くなりますが引用してみたいと思います。

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頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するという大事な仕事を忘れる恐れがある。

頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめから駄目にきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それが駄目と分かる頃には、しかし大抵何かしら駄目でない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめから駄目な試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手を束ねて空中に画を描いている人からは逃げ出して、自然の真ん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せるからである。

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今から86年前に書かれたものですが、現代では「頭のいい人」が人工知能AIであり、「頭の悪い人」が私たち人間ではないでしょうか?AIに打ち勝つためには、私たちは失敗を恐れず、自然の真ん中へ裸で飛び込む「好奇心」が必要なのです。

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それでは、大学の教育とは一体どんなものなのでしょうか?高校までの教育とどこが違うのでしょうか?大学教育に対する批判の一つに、学生は家でほとんど勉強しないこと、本を読まないことが度々挙げられます。そして、大学は学生に対し、どのような教育をしているのかという批判もあります。また、スマートフォンに熱中する若者を批判する人もいます。私は、文明の利器は、特に若い人ほど使いこなす必要があると思います。しかし、その反面、読書という人間の貴重な行為を失ってはいけません。

大学の基本は人材の育成であり、そのため研究に取り組み進め、それを基にした教育を展開しています。研究は、新しいものの発見であり、新しい考え方の創造でもあります。従って、それを基にした教育に回答はありません。新しいものを見つける、その見つけ方を教えるのであり、皆さんは、その見つけ方を学ぶのです。それが大学教育の基本です。これまで皆さんが受けて来られた教育は、すでに確立され、そして集積された知識の学習であったろうと思いますし、この点が大学での教育と大きく異なるところです。

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大学では、多くの場合、読書と同じように自主性を重んじた勉学が求められます。自分が学びたいと思う科目を選択する必要があります。また、問題を設定し、それを解決する方法を学び、考えるという極めて能動的な学習が求められます。その実例として挙げられるのが、災害時に自主的に考えて活躍した先輩達のボランティア活動です。このように、単に知識を学習するだけでなく、目的意識を持って能動的に「学問をする」ことが大切です。何事にも興味を持ち、あらゆることに疑問を抱く、これこそ「学問をする」原動力となります。

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さあ、皆さん、一緒に学問をしましょう。そして「創造する森 挑戦する炎」を胸に新しい熊本大学、生き生きとした熊本を作っていこうではありませんか。

本日は、熊本大学へのご入学、誠におめでとうございます。

平成31年4月4日
熊本大学長 原田 信志

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